上の写真は「東の水門」です。この水門の奥行きは10・6mあり、奥は2段になっています。水門は奥まで見える範囲の施工法で、四方が石で囲まれてできています。
古代から維新へと魅力的な
歴史空間です
 

 
農事組合法人 石城の里の象徴的な存在ともいえる石城山(362m)には、多くの遺跡や昔話があり、清水も絶えることなく涌き出て、山頂では約1500年以上もの間、豊かな生活が続けられてきました。
 
 石城山は里の方から見ると一つの山に見えますが、実は日の峰、月の峰、星の峰、大峰、鶴ヶ峰の五つの峰からできています。
 石城山の八合目付近で、巨石を並べて鉢巻状に山を取り巻いているのが国指定史跡の神籠石です。その土塁と列石は何と2533・54mにわたって張り巡らされているといいます。 

 左上の写真は「東の水門」といいます。石城山には東・西・南・北の4カ所には石組を施した谷間に水門があります。
 また石城山には、「山姥の涙」「悲恋の岩」など昔から語り継がれた昔話が数多くあります。

 さらに歴史は下って江戸末期、維新の時代には第二奇兵隊の本陣が置かれました。山頂の石城神社横の神護寺跡に第二奇兵隊本陣跡があるほか、テレビ塔の横には奇兵隊火薬庫跡も残っています。
 まさに石城山や麓の石城の里は、古代から維新の時代、そして現代へと夢とロマンと謎を秘めた歴史空間と言えるのです。
 私たちの農事組合法人 石城の里のメンバーは、そんな地域で農業の持続的発展を願って頑張っています。温かい応援をよろしくお願いします。
 
   
 
 
 上の写真は第二奇兵隊本陣跡です。
 第二奇兵隊の拠点になりました

 
奇兵隊は文久3年(1863年)5月、防長非常の際に生まれた一種の義勇兵です。入隊者は誰でもいい、平民も武士と同様に刀を帯び苗字を用いることができ、血気盛んな青年のあこがれの的でした
 石城山の第二奇兵隊は、これに呼応して熊毛郡室積(光市)を拠点として同志を糾合したことに始まります。最初は南奇兵隊と呼びました。慶応元年3月、訓練強化のために石城山に移駐。道中、全員が純白の上衣、紫袴に朱鞘の長刀を帯び、幹部は皆、馬上に在ったといいます。

 石城山では神護寺跡【左下の写真】を本陣とし、兵舎、訓練場、馬舎、火薬庫などの施設を整え訓練を日課としていました。同年4月に第二奇兵隊と改称されました。同年8月には、毛利定広公(後の元徳公)が陣営を閲兵され、地雷火の実演、小銃の演習などを御覧になったといいます。


 慶応2年6月には四境の役があり、第二奇兵隊はただちに大島郡に出撃。安下庄の幕府軍を破り、転戦して久賀に上陸の幕府軍も粉砕して、大島郡全島を回復する戦禍を挙げました。さらに後の鳥羽、伏見の役、戊辰戦争にも参加し維新回天に多大な貢献を成したとされていす。
   
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